機動戦士ガンダムUC episode2「赤い彗星」
再来は即ち再開。求める未来は変わらず、辿る過程はやはり繰り返しに過ぎないのか。
赤きMS「シナンジュ」のパイロットであり、その容姿、声、口調、思想、意思。すべてに於いてあの「シャア・アズナブル」と酷似している男、フル・フロンタル大佐。彼の登場が、今回のメインでした。
意図的に組み入れられている数々の言葉や、MS戦で見せるセンス。達観したような物言いでありながら、目的を持った意思・行動には差異はない。ただ一つ感じたことは、彼の登場による「喜び」だけでした。
バナージが連邦からジオンへと移動し、お話の場が変わったところで、彼の考え、彼の思いが言葉として発せられていた。
けれどそれは一つの考えに過ぎないのも事実。
正しい戦争なんてない。けれど必ずしも「正しさ」が人を救うことになるわけではないということを、マリーダは彼に伝えました。
ジオンという光。人は光なしには生きてはいけない。信じるものがなければ生きていけない。前を向いていけない。すべてを剥奪されたとしても、無形であろうとも、目に見なくとも、同じものを"見ていける" それは信じることで生まれるもの。
何を持って戦うのか。何を信じて戦うのか。何に縋って生きるのか。すべての答えは「己」にしか存在し得ないのだということを、バナージはその身をもって知っていくことになりそうです。
間違ったことも、正しいことも、"みんな"知っている。
ただ、それをやるかやらないかを決めるのは"みんな"ではない。
「なぜ」という疑問を持たなくなってしまえば、恐らく思考はそこで停止してしまう。だからといってやっていいことと悪いことはあるはずで、それすらも、委ねられてしまうと人は途端に臆病になってしまう。そこを打ち破れる者こそが、望みし未来を勝ち得る戦いの場の一部になる。。
どれほど話し合ったって、人は所詮解り合えない生き物。それは諦めでもあるけれど、必然と捉えることだってできてしまう。後者を選んでしまったのだとしたら、分かり合おうというステージから脱し、次の、戦いへのステージを選んでしまう・・・
フル・フロンタル大佐の意思は、変わらずそこに在った。それもまた、喜びでした。
次巻も楽しみです。
"ガンダム"と名のつく作品に対し、に何かしら思いを持って見ている人すべてに、この"ガンダム"を見てもらいたい。その思いは強くなるばかりです。
赤きMS「シナンジュ」のパイロットであり、その容姿、声、口調、思想、意思。すべてに於いてあの「シャア・アズナブル」と酷似している男、フル・フロンタル大佐。彼の登場が、今回のメインでした。
意図的に組み入れられている数々の言葉や、MS戦で見せるセンス。達観したような物言いでありながら、目的を持った意思・行動には差異はない。ただ一つ感じたことは、彼の登場による「喜び」だけでした。
バナージが連邦からジオンへと移動し、お話の場が変わったところで、彼の考え、彼の思いが言葉として発せられていた。
けれどそれは一つの考えに過ぎないのも事実。
正しい戦争なんてない。けれど必ずしも「正しさ」が人を救うことになるわけではないということを、マリーダは彼に伝えました。
ジオンという光。人は光なしには生きてはいけない。信じるものがなければ生きていけない。前を向いていけない。すべてを剥奪されたとしても、無形であろうとも、目に見なくとも、同じものを"見ていける" それは信じることで生まれるもの。
何を持って戦うのか。何を信じて戦うのか。何に縋って生きるのか。すべての答えは「己」にしか存在し得ないのだということを、バナージはその身をもって知っていくことになりそうです。
間違ったことも、正しいことも、"みんな"知っている。
ただ、それをやるかやらないかを決めるのは"みんな"ではない。
「なぜ」という疑問を持たなくなってしまえば、恐らく思考はそこで停止してしまう。だからといってやっていいことと悪いことはあるはずで、それすらも、委ねられてしまうと人は途端に臆病になってしまう。そこを打ち破れる者こそが、望みし未来を勝ち得る戦いの場の一部になる。。
どれほど話し合ったって、人は所詮解り合えない生き物。それは諦めでもあるけれど、必然と捉えることだってできてしまう。後者を選んでしまったのだとしたら、分かり合おうというステージから脱し、次の、戦いへのステージを選んでしまう・・・
フル・フロンタル大佐の意思は、変わらずそこに在った。それもまた、喜びでした。
次巻も楽しみです。
"ガンダム"と名のつく作品に対し、に何かしら思いを持って見ている人すべてに、この"ガンダム"を見てもらいたい。その思いは強くなるばかりです。
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