クズの本懐 第十一話
人は、変われる。
崩れてきた茜先生。鐘井先生の純愛が、茜先生の調子をどんどん狂わせていって、茜先生自身がそのことに戸惑い慌てる様子が見ていてとても可愛らしかったなぁ。
茜先生は自身に対する意識が薄く、いつも第三者目線が存在していて、当事者意識を持てないでいました。さらに一線を超えることに対しても非常にハードル(これも意識かな)が低く、相手がなぜそこまで悲しんだり怒ったりするのかを理解することが難しかった。だからなぜそうなのかと問われても答えることができず、強いて挙げるなら「ライフワークだから」と、着地させているほど。
鐘井先生はそんな彼女も好きでいてくれていました。茜先生にとってそれは初めて?のイレギュラーな反応でした。そこまで好きで居続けれる源が何かもわからなかった。でもそれは逆を言うと、彼女を本当に愛してくれた、好きでいてくれた人はこれまで誰もいなかったのでは、と思います。この「本当に」のレベルが相対的なものである以上、一概には比較もできないのだけれど、鐘井先生にとっての「好き」は、少なくとも茜先生がこれまで言われ続けてきた「好き」とは違ったのだろう。
「好きな人には、元気で生きていて欲しいんです。」
最後は鐘井先生のプロポーズ。その受け答えも茜さんらしい回答でw 現実感があり、と、同時に、この作品でこんな幸せな結末を迎える人が出てくるとは思ってもなかったんでw 意外でしたが、鐘井先生なら心からおめでとうと言えるな、とも思いました(^_^;)
そして麦君は彼女が変わってしまったことを知り、彼の恋も終わりが訪れました。
何かに当てはまり続けていないと生きていけない。そこにある種の危うさを、彼は彼女が好きな理由として捉えていました。でもそれは良いこととは思っていなかった。だから変えたいと、自分が変えたいと思っていた。
変えたいと思った気持ちが、彼女への魅力そのものであって、変わってしまった以上、その魅力は失われていた。それが麦君の恋だったのかなぁ。
花火ちゃんも麦君も、それぞれが失恋し、互いが好きだった人同士は成就する。奇しくも最もクズと思われていた茜先生が・・・ 次回はもうただのエピローグかなぁ。花火ちゃんたちはもうこれ以上は無い気がするけれど。。
崩れてきた茜先生。鐘井先生の純愛が、茜先生の調子をどんどん狂わせていって、茜先生自身がそのことに戸惑い慌てる様子が見ていてとても可愛らしかったなぁ。
茜先生は自身に対する意識が薄く、いつも第三者目線が存在していて、当事者意識を持てないでいました。さらに一線を超えることに対しても非常にハードル(これも意識かな)が低く、相手がなぜそこまで悲しんだり怒ったりするのかを理解することが難しかった。だからなぜそうなのかと問われても答えることができず、強いて挙げるなら「ライフワークだから」と、着地させているほど。
鐘井先生はそんな彼女も好きでいてくれていました。茜先生にとってそれは初めて?のイレギュラーな反応でした。そこまで好きで居続けれる源が何かもわからなかった。でもそれは逆を言うと、彼女を本当に愛してくれた、好きでいてくれた人はこれまで誰もいなかったのでは、と思います。この「本当に」のレベルが相対的なものである以上、一概には比較もできないのだけれど、鐘井先生にとっての「好き」は、少なくとも茜先生がこれまで言われ続けてきた「好き」とは違ったのだろう。
「好きな人には、元気で生きていて欲しいんです。」
最後は鐘井先生のプロポーズ。その受け答えも茜さんらしい回答でw 現実感があり、と、同時に、この作品でこんな幸せな結末を迎える人が出てくるとは思ってもなかったんでw 意外でしたが、鐘井先生なら心からおめでとうと言えるな、とも思いました(^_^;)
そして麦君は彼女が変わってしまったことを知り、彼の恋も終わりが訪れました。
何かに当てはまり続けていないと生きていけない。そこにある種の危うさを、彼は彼女が好きな理由として捉えていました。でもそれは良いこととは思っていなかった。だから変えたいと、自分が変えたいと思っていた。
変えたいと思った気持ちが、彼女への魅力そのものであって、変わってしまった以上、その魅力は失われていた。それが麦君の恋だったのかなぁ。
花火ちゃんも麦君も、それぞれが失恋し、互いが好きだった人同士は成就する。奇しくも最もクズと思われていた茜先生が・・・ 次回はもうただのエピローグかなぁ。花火ちゃんたちはもうこれ以上は無い気がするけれど。。
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